カテゴリ:研究室便り( 5 )

 

卒業にあたって 文学部考古・日本史学専攻2010年度卒業 福原健司

2010年3月に国士舘大学文学部を卒業して警察官になることになりました。私は考古学を学びたいと思い国士舘大学に入学し、入学後1~4年次を通して数次にわたりヨルダン・ウムカイス遺跡の発掘調査に参加しました。発掘調査への参加によって現地の人と接したりするなど様々な貴重な経験をさせていただきました。大学3年生の頃は学部の先輩である今井先輩の家に半居候させていただき、とても楽しい経験もしました。大学で知り合った人はお互い違った進路に進んでも繋がりをもてる身近な存在なのだと実感しています。
戸田先生のゼミでは、ゼミ生の人数が少なかったこともあったと思うのですが、とても丁寧に指導していただき卒業論文も無事に書き上げることができました。ほんとうに感謝しています。
就職先は考古学とは全く関係がないように思われるのですが、警察官には忍耐力や集中力、人と接するコミュニケーション能力、人との協調性が必要になります。私は、これらのことの大切さ重要さを海外での発掘調査や戸田先生のゼミで実感し新たに学ぶこともありました。そして、これからも国士舘大学で学んだことを忘れず住民の安全を守る警察官という仕事に誇りを持って取り組み精一杯努力したいと思います。
後輩の諸君も大学生活ででしか出来ないことがたくさんあるので悔いのないように頑張ってください。
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2007年8月9日ウムカイスでの発掘の一コマ
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2007年8月12日ウムカイスでの発掘の一コマ
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2007年8月25日ウムカイスで現地に人たちとの一コマ
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2007年9月14日ウムカイスで夕食の一コマ
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by yuji_toda | 2010-04-02 17:35 | 研究室便り  

社会人1年を終えて

社会人1年を終えて
                  2008年度考古・日本史卒業 今井 昭俊                    
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昨年の3月に国士舘大学を卒業し、地元の建設会社内にある埋蔵文化調査部に入社しました。早いものでまもなく1年目を終えます。昨年は社会人1年生ということもあり、毎日が悪戦苦闘であり勉強でもありました。在学時には戸田先生のゼミにいて、2カ年にわたるヨルダン・ウムカイス遺跡の発掘と報告書作成、日本国内での遺跡調査に伴う報告書作成作業などを経験し、考古学を少しは学んだつもりでした。しかしいざ発掘現場に出てみると難題ばかり、結局考古学を再び一から学び直すこととなり悪戦苦闘の毎日。しかしながら、社内の先輩方は優しい方が多く、丁寧にご指導いただいています。
 入社後、すぐに現場へ派遣され4月後半から約6ヶ月間発掘作業に従事しました。日本での発掘現場での作業は、初めてに等しかったので作業員の方々に混じりながら、掘り方やセクション図の描き方など多くを学びました。
11月からは、現場から引き上げて整理作業に入りました。整理作業に関しては、学生時代戸田先生より特訓を受けていたこともあり、現場での作業よりは比較的何とかなりました。しかしながら、土器実測は何回も書き直すなど大変苦労しています。
現在は、報告書の執筆するために様々な報告書を読み込んでいます。
 今年の目標は、2年目なので昨年学んだことを忠実に行いながら、さらに新しい知識を得て勉学に励みたいと考えています。後輩諸君も悔いのないよう頑張ってください。
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土器実測で奮闘
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2007年の思い出1 ヨルダン・ペッラ遺跡で
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2007年の思い出2 ヨルダン・ペッラ遺跡で
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by yuji_toda | 2010-01-27 17:12 | 研究室便り  

百済の鐙瓦製作技法について[Ⅳ] その2

Ⅴ 西穴寺と新元寺両鐙瓦の比較
 両者の瓦当文様はどちらも八葉素弁蓮華文鐙瓦である。それぞれの計測値は新元寺瓦で
内区径が10,5~10,7cm(11,5cm)、中房径最大径4,3cm(4,3cm)、中房高0,4~0,5cm(0,6~0,7cm)、連子小粒1+4課(大粒1+4課)、花弁長3,2~3,4cm(3,4~3,7cm)、花弁最大幅2,5~3,4cm(2,7~2,9cm)、花弁中房の連結部幅1,4~1,6cm(1,6~2cm)を測り、花弁は膨らみをもつが彫はあまり深くない(これに対して西穴寺瓦の花弁は全体的に膨らみをもち彫りが深い)。これに対して西穴寺瓦各部の計測数値は(カッコ)内の数値に示したとおりである。
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写真 6新元寺(左)跡出土鐙瓦と西穴寺跡出土鐙瓦(右)
 このように両者の瓦当面を比較したとき新元寺瓦のそれぞれの計測値に対して西穴寺瓦のぞれぞれの計測値が多い数値であることが解る。また瓦当蓮華文はどちらも八葉素弁蓮華文で花弁は膨らみをもつが彫はあまり深くない新元寺瓦に対して、花弁は全体的に膨らみをもち彫りが深い西穴寺瓦、そしてどちらも凸型中房で、小粒連子1+4課の新元寺瓦に対して、大粒連子1+4課の西穴寺瓦。などの点が挙げられるが、これらを考慮すると両者は同笵関係にあり、新元寺瓦の瓦笵を彫り直し西穴寺の瓦当笵として瓦が製作された可能性も指摘できる。もしそうであるとするならば西穴寺瓦に新元寺瓦が先行することになる。両者の瓦の関係が瓦当笵の改造によるものかどうか今回は結論を控えるが今後の課題としておく。

Ⅵ ま と め
 以上軽部慈恩氏寄贈の西穴寺跡及び新元寺跡出土の鐙瓦2点について述べ、これらについていくつかの問題点を指摘した点を指摘した。それらについて再度整理するなら次のようになる。
1 西穴寺跡出土鐙瓦は残存部分の状況からその技法には再検討の結果「粘土巻上げ式」と「嵌め込み式」を想定できるが「粘土巻上げ式」が有力である。
2 この様な杵状内型など型木は用いられなかった「嵌め込み式」・「粘土巻上げ式」技法は、すでに楽浪郡の鐙瓦製作技法として行われており、漢城時代でも鐙瓦の製作技法としてすでに行われていた。
3 新元寺鐙瓦のような有稜花弁を持つ瓦当文様は熊津の地域で極めて少なく泗沘の地域でも数箇所で確認できるがあまり多くない。このような特徴のひとつである花弁中央に細い稜線を施す例は中国南朝によく見られる。おそらく中国南北朝の影響下で成立した瓦文様であろう。
4 新元寺跡の瓦の技法は「嵌め込み式」であることが明瞭である。西穴寺跡出土鐙瓦と区別するため便宜的に「新元寺技法」と名称して、これまでの分類に加えた。
5 これらの鐙瓦技法が熊津時代に伝えられた背景には概ね3通り想定できる。
(1) 漢城時代における造瓦技法は概ね「嵌め込み式」と轆轤回転による「粘土巻上げ式」によるものである。これに対して西穴寺・新元寺技法との関連は、熊津時代瓦当文様の蓮華文が中国南北朝から影響を受けて図案化されたが、ある瓦工集団によってこの漢城期成立した技法がそのまま受け継がれ西穴寺瓦・新元寺瓦に用いた。
(2) 熊津時代中国南北朝との通交に伴ってこの時期南朝もしくは北朝から百済に伝えられた造瓦技法であった。
(3) 宋山里6号墳羨道部羨門の閉塞用塼の中から発見された銘文塼に見られる「梁官瓦為師矣」から熊津期中国南朝より伝えられた技法である。
6 新元寺・西穴寺両寺院跡出土の鐙瓦を細部にわたって観察した結果、両者は同笵関係にあり、新元寺瓦の瓦笵を彫り直し西穴寺の瓦当笵として瓦が製作された可能性も今後再検討する必要がある。
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by yuji_toda | 2008-05-13 14:27 | 研究室便り  

百済の鐙瓦製作技法について[Ⅳ] その1

百済の鐙瓦製作技法について [Ⅳ]
―軽部慈恩氏寄贈瓦に見る西穴寺技法の再考と新元寺技法―
戸田 有二(註1)

この論文は『百済文化』 第37号(公州大学校 百済文化研究所)に掲載したものである。

Ⅰ はじめに
Ⅱ 西穴寺跡出土鐙瓦
(1) 鐙瓦の観察 (2) 技法の再検討
Ⅲ 新元寺跡出土鐙瓦と新元寺技法名称の設定
(1) 鐙瓦の観察 (2)「新元寺技法」の名称設定
Ⅳ 西穴寺技法と新元寺技法の導入とその背景
Ⅴ 西穴寺と新元寺両鐙瓦の比較
Ⅵ ま と め


Ⅰ はじめに
 2006年11月29日韓国国立公州博物館に4点の鐙瓦が寄贈された。寄贈の瓦は戦前(太平洋戦争)軽部慈恩氏が所蔵していた百済遺跡出土遺物の一部である。
 ここ10数年来筆者は韓半島での屋瓦研究の意図するところを次の点に求めその究明を試みてきた。それは製作技法における楽浪・高句麗瓦と百済瓦の関連,及び百済瓦の展開と日本の瓦との関連などの面から推し進めるものであった。具体的には百済時代全般を通して、今後の百済瓦製作技法研究の基礎となるべき鐙瓦にみられた接合形態と製作技法の分類を行い、この技法をもとに漢城時代の技法と楽浪屋瓦・高句麗屋瓦との技法的関連、熊津・泗沘時代屋瓦技法の展開についての考察及びその源流の追跡などであった。最終的には上記の解明により北東アジアの造瓦における組織、技法、文様、伝播とその経路などの究明から古代社会の一端を明らかにすることを目的とするものである。
 今回の軽部氏寄贈瓦のなかで特に西穴寺跡出土鐙瓦と新元寺跡出土とされる鐙瓦は従来筆者が推し進めてきた上記の百済屋瓦研究に関連し、その製作技法上において必要不可欠なきわめて重要な関連資料であることが分かった。ここではこの2点の鐙瓦について取り上げその製作技法について過去筆者の行ってきたことと連結して考察を試みたい。

Ⅱ 西穴寺跡出土鐙瓦
 この鐙瓦は1928 (昭和3)年8月19日軽部慈恩氏によって西穴寺より採集されたものであるが、1945年軽部氏の帰国と共に氏によって日本に持ち帰られたものである。その後奈良国立博物館に委託保管された後、2006年11月に寄贈された鐙瓦4点中の1点である。
 筆者はかつて寄贈返還以前百済の鐙瓦製作技法について分類したことがあるが、その折これとは別の鐙瓦(註2)を観察し出土遺跡名にちなんで「西穴寺技法」と名称した。その時この論考(註3)のなかで今回軽部氏の遺族より寄贈返還されたこの鐙瓦を関連資料として次のような記載をしてこの瓦をあつかった。
 「この瓦当文様に極めて近い蓮華文を持つものに舟尾寺跡・大通寺跡出土の鐙瓦があるが, この中で舟尾寺跡出土のものが同様の整形技法による可能性が極めて高い。……(略)
 ……しかし大通寺瓦は現物が現在行方不明であるためその詳細な計測値は確認できない。 ただ写真で観察する限り,瓦当文様の構成・配置・花弁の形状・蓮子の配置と数,中房の形などの特徴は西穴寺瓦に最も近い同笵とも思えるほどの蓮華文の瓦当文である。」
 このようにこの瓦について指摘した。しかし大通寺跡出土とした鐙瓦はこの寄贈された瓦であり筆者の事実誤認で実際にはこの瓦は西穴寺出土の鐙瓦である(註4)。幸いなことにこの瓦について実物を2007年10・11月の2回にわたり国立公州博物館で観察することが出来た(註5)。かつて「西穴寺技法」を提唱した時に観察した鐙瓦は内区花弁の全体が残存するものの外区周縁は欠失して確認できなかった。 しかし今回寄贈されたこの瓦は内区全体と2分の1弱ほどの周縁が残存するため、観察の結果前回では確認でき得なかったことも認識できた。このため再度両者を比較観察しながら問題点を指摘し整理したい。

(1) 鐙瓦の観察
 軽部慈恩氏はこの鐙瓦について1929年と1932年(註6)そして1946年(註7)さらに1971年(註8)の4回にわたってその概要を発表されている。
 瓦当面は2分の1強を欠く周縁部と内区部分の蓮華文全体が良好な状態で残っている。瓦当文様は彫りの深い八葉素弁蓮華文鐙瓦で、瓦当面径は推定13,5 cm、内区径11,5~12cm、瓦当の厚さは中房中央で2 cm、弁中央で1,3~1,5cmを測る。花弁は、長さ3,5~3,7cm、最大幅2,7~2,9 cmを測り花弁全体は丸みを持つが弁端は鋭く尖る。間弁は鋭く反転し、底辺の長い逆三角形平面で高さは0,6~0,8cmほどあり、花弁端を包み込む形をとるが足は中房と連結しない。中房径は4,3cm、高さ0,5~0,7cmの凸形で、蓮子は大粒の1+4課を配置する。外区周縁幅1~1,2cm、高さ1,3cm、色調は暗灰色で焼成は良好、胎土には若干の白色粒・雲母・小礫などの混入が認められるが粗悪ではない。
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写真 1 西穴寺跡出土寄贈鐙瓦写真 瓦当面と裏面


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図 1 西穴寺跡出土寄贈鐙瓦実測図


 成形上の特徴として、外区周縁の剥離した内区側面には布目の痕跡ではなく瓦当側面に見られるようなナデの痕跡が確認できる。このナデは回転を利用したような横方向に走る細い複数の筋のあるナデ痕である。瓦当部裏面には、円筒と瓦当面内区を接合した後円筒の不要部分を切とるが、不要部分の切り取った状態が瓦当の厚さに近い立ち上がりで切り取られたものと思われる。それでも接合され切り取られた円筒の部分は若干の立ち上がりがあったものと思われる。そのため瓦当裏面を平らに整える理由から、立ち上がりと同じ高さにあわせて粘土を補強しナデによって仕上げている。しかし裏面の粘土補強は不規則であったこととあわせてナデ成形があまり丁寧ではなかったため仕上げ過程の状況がよく観察できる。瓦当下半部の約2分の1弱残された周縁部裏面には部分的に瓦当部内区側面と周縁の接合された部分でもその痕跡が沈腺状で残っている部分が確認できる。
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写真 2 周縁の接合された部分で確認される沈腺状痕跡

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写真 3 「回転を利用したような横方向に走る細い複数の筋状のナデ痕」

 今回「西穴寺技法」の提唱資料となった金永培館長発見の鐙瓦と寄贈瓦2点の比較検討した結果、成形上の特徴が細部に亘っては異なる部分もあるが瓦当面は同笵関係にあることを確認できた。しかし技法面から両者をつきあわせて細部にわたって検討した結果新たな技法上の問題点が指摘できた。

(2) 技法の再検討
 技法上の問題点というのは周縁と接合されて剥離した瓦当内区側面の状況はポジ状布目圧痕ではなく「回転を利用したような横方向に走る細い複数の筋状のナデ痕」が一周する点である。以前西穴寺技法検討時はこの点も考慮したが、泗沘時代の「公山城技法Ⅰ」のなかには男瓦凹面先端部の瓦当周縁となる部分を削って布の痕跡を消し、接合した鐙瓦の例が一部にみられることから安易にこの場合も同様と考えた。このためその技法は円筒と瓦当内区側面が接合された「嵌めこみ式」と結論づけた。しかし今回の寄贈瓦には接合された周縁部分が全体の約2分の1弱残存しており、この部分を含めた瓦当裏面の痕跡状況観察から前回では把握出来えなかった点が確認された。
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写真 4内区と周縁の接合部
 瓦当の厚さはもう1点の鐙瓦が中房で1,7~1,9cm、にたいして寄贈瓦は中房で1,8~2cmとほぼ同じである。裏面の整形はもう1点のほうが全体に指オサエ、指頭整形、指ナデ等による調整仕上げが裏面中央及び端部まで全体的に行われているのに対し、寄贈瓦の裏面は不規則な粘土補強の後、あまり丁寧ではないナデ成形による仕上げが施されている点が少し異なる。また両者ともに内区側面に「回転を利用したような横方向に走る細い複数の筋状のナデ痕」が認められるところは共通する。
 しかし寄贈瓦では残存する周縁部断面及び裏面・側面の状況から内区と周縁の両者は明らかに接合されたものであることは確かである。ただそれがどのようにして接合されたものであるのか断定しがたい。状態を観察する限り接合されている周縁はその断面から見方によっては粘土巻上げの様にも思えないこともない。この状況から観察して私には接合された周縁の素材が粘土紐なのか、円筒なのか判断が困難である。したがって今回は再検討の意味から、この状況で想定できる技法2種3通りを指摘する。
 A「粘土巻上げ式」
 瓦当内区側面から粘土巻上げによって円筒を作り、瓦当裏面円筒の不要部分を切り取り除いたものである。その製作工程は概ね次のようなものと考える。
1 轆轤台に瓦当笵型を置き、粘土を詰めて瓦当内区部分をある程度まで整える(内区側面の回転を利用したような横方向に走る細い腹数の筋状ナデ痕はこの段階で施される)。
2 轆轤回転台を利用しある程度整った瓦当内区側面から粘土を巻き上げて円筒に仕上げる。
3 仕上がった円筒一方の不要部分を瓦当裏面にあわせて切り取る。
4 瓦当裏面に粘土の補強、ケズリ、ナデ、指頭圧、指ナデ、オサエ、および回転による側面のナデなどで整え仕上げる。
 この技法を想定した理由はすでに漢城時代の鐙瓦製作技法に存在するからである。
B 「嵌め込み式」
 円筒と瓦当内区側面を接合し、瓦当裏面円筒の不要部分を切り、取り除いたものである。この場合接合する円筒には「Ⅰ土器と同様に轆轤製作した円筒(粘土巻上げの円筒も含む)。」と「Ⅱ模骨桶巻き作りによって製作した円筒」の存在が想定される。その製作工程は概ね次のようなものと考える。

 Ⅰ土器と同様に轆轤製作した円筒(粘土巻上げの円筒も含む)の場合
1 瓦笵に粘土を押し込み瓦当部内区部分の形をある程度まで整える。
2 整った瓦当内区部分に円筒を被せて接合調整し円筒先端部を瓦当面周縁とする。
3 仕上がった円筒一方の不要部分を瓦当裏面にあわせて切り取る。
4 瓦当裏面に粘土の補強、ケズリ、ナデ、指頭圧、指ナデ、オサエ、および回転による
側面のナデなどで整え仕上げる。
 内区側面の回転を利用したような横方向に走る細い複数の筋状ナデ痕は1か2の段階で着くと思われる。

 Ⅱ模骨桶巻き作りによる円筒の場合
1 瓦笵に粘土を押し込み瓦当部内区部分の形をある程度まで整える。
2 整った瓦当内区部分に凹面先端の瓦当周縁となる部分に水分を含ませ、ケズリ・ナデなどで布痕を消した円筒を被せて円筒先端部を瓦当面周縁とする。
3 仕上がった円筒一方の不要部分を瓦当裏面にあわせて切り取る。
4 瓦当裏面に粘土の補強、ケズリ、ナデ、指頭圧、指ナデ、オサエ、および回転による
側面のナデなどで整え仕上げる。
内区側面の回転を利用したような横方向に走る細い複数の筋状ナデ痕は1か2の段階で着くと思われる。
 この様に想定した理由は同種技法が漢城時代の鐙瓦の製作技法として存在するからである。
 以上2種3通りの周縁と内区側面の接合技法について想定してみたがどうしても「内区側面の回転を利用したような横方向に走る細い複数の筋状ナデ痕」がどのような理由で着くのかいま一つ理解しにくい点がある。よく考えてみればBの場合、円筒の凹面端部の布痕跡をわざわざ削ったりナデたりしてまで接合しなければならない理由が果たしてあったのだろうか、むしろ布目痕が存在した方が接合強化を図れるのではないかとも考えられ、この点に若干疑問が残る。これに対してAの場合の「粘土巻上げ式」のほうが解かりやすいのは確かである。

 Ⅲ 新元寺跡出土鐙瓦と新元寺技法名称の設定
 この鐙瓦については軽部慈恩氏がその著書『百済美術』(註9)の中で始めて発表したものである。また軽部氏がどのような経緯でこの瓦を所蔵したのか明らかにはされていないが著書の中では軽部慈恩蔵と記載されている。この鐙瓦も1945年軽部氏の帰国と共に氏によって日本に持ち帰られたものである。その後奈良国立博物館に寄託された後、2006年韓国国立公州博物館に寄贈返還された4点の中の1点である。寄贈以前は稲垣晋也氏(註10)、亀田修一(註11)氏などのこの瓦に関した見解がある。

(1)鐙瓦の観察
 瓦当面は外区周縁の全体を欠くが内区部分の全体は完存する。全体的に形の整った八葉有稜素弁蓮華文鐙瓦である。全体の瓦当径は明瞭でないが、内区径は10,5~10,7cm、中房は凸型で中房径は4.3cmを測り、蓮子は比較的小粒の1+4課を配置する。瓦当の厚は中房で1,7cmを測る。外区は花弁を包み込んだ間弁の外側で0,5~0,7cmほど残存する。花弁の彫りはあまり深いものではないが花弁として鮮明に掘り込まれている。花弁中央には高さ0,5~1㎜、幅0,2cm程の三角形断面の稜線が弁端から中房に連結する場所まで施されている。
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写真5 新元寺跡出土寄贈鐙瓦

花弁の長さは3,2~3,4cm、最大幅は2,5~3,4cm、中房との連結部での幅は1,4~1,6cmを測る。花弁に対して間弁は鋭く高く反転し,底辺の長い逆三角形平面で高さは0,6cmほどあり,花弁端を包み込む形で、足は中房と連結する。弁端と周縁の間はナデによって仕上げられている。成形上の特徴は内区側面がきめ細かな布目の痕跡がほぼ一周して確認される(厳密には布綴じ目が約2~3cmにわたってほぐれたと思われる痕跡の部分を除いて)。瓦当裏面は円筒内側側面付近を指頭圧によるナデで一周して仕上げ、その内側は不定方向のナデを仕上げとしている。西穴寺跡出土瓦と異なる点は、西穴寺瓦は内区側面(剥離面)の状況がナデの整形痕で、それがほぼ一周して(一部断続的な部分もあるが)確認できる。これに対して新元寺瓦の場合、内区側面(剥離面)の状況はきめ細かな布目の痕跡が一周して確認される点にある。
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図 2 新元寺跡出土寄贈鐙瓦実測図

 この鐙瓦文様は円端形花弁を持ち弁中央には細い稜線が施されたもので、どちらかといえば西穴寺瓦、舟尾寺瓦タイプの蓮華文である。この瓦当文様の大きな特徴は花弁中央に細い稜線を施すところにある。熊津の地域で有稜花弁を持つ瓦当文様は極めて少なく泗沘の地域でも数箇所で確認できるがあまり多くない。このような特徴のひとつである花弁中央に細い稜線を施す例は中国南朝によく見られる。おそらく中国南北朝の影響下でこの地に成立した瓦文様であろう。

(2)「新元寺技法」の名称設定
 上記のように新元寺出土のこの鐙瓦は外観からの観察では内区側面(剥離面)の状況はきめ細かな布目の痕跡が一周して確認されるのが技法上の大きな特徴である。これに対して西穴寺の鐙瓦は内区側面(剥離面)の状況がナデの整形痕で、それがほぼ一周して認められることが新元寺瓦との成形上の相違点である。これを技法的に位置づけた場合西穴寺技法の範疇でとらえることができ、先に想定した西穴寺の3通りの作り方の中で「嵌め込み式」のⅡ模骨桶巻き作りの円筒による接合にあたる。ただ西穴寺鐙瓦は2種3通りの作り方を想定したがこの場合現状ではどうもこのなかの何れの技法になるのかこれらの資料では断定しがたい。ただ内区剥離面と残存する周縁の状況から“A「粘土巻上げ式」”の可能性がきわめて高いと言わざるをえない。今後これら両寺院跡出土の鐙瓦はその技法の源流と展開、百済への伝播背景、高句麗と新羅との関連、中国南北朝との関連、日本への伝播背景など北東アジアの中で論議されていくものと考える。こういった意味からも今後の論を進めていくためにも西穴寺跡と新元寺跡出土鐙瓦2点の鐙瓦技法を便宜的に区別したい。
内区剥離側面に布痕跡の一周する新元寺瓦の製作技法を「新元寺技法」と名称する。

 Ⅳ西穴寺技法と新元寺技法の導入とその背景
 この技法は熊津時代以降では現在のところ熊津地域のみに確認できるもので泗沘地域ではみられず、また熊津でも限られた寺院跡のみに認められる鐙瓦製作技法である。もともと百済でのこの技法は漢城時代の石村洞4号墳出土鐙瓦などで行われている技法である。これらの技法はすでに朝鮮半島では楽浪で行われた技法で、石村洞4号墳鐙瓦はその製作時期に時間的空間が存在するものの その流れの中で成立したと考えられる。
西穴寺技法はこれら漢城時代の技法がそのまま受け継がれ西穴寺の技法を完成させたものなのか,それともこれらとは無関係で別のルートから熊津に伝えられたのかという点は
大変重要な問題である。かつて筆者はこの点についてその可能性を3点指摘したことがある(註12)が、この点について若干の補足をして再度整理するならば次のようになる。
e0134856_14143823.jpg 1点は,楽浪・高句麗の影響下漢城期成立した技法がそのまま受け継がれ西穴寺の技法を完成させた。具体的には漢城時代における造瓦開始が石村洞4号墳瓦および夢村土城の瓦が4世紀後半代~5世紀前半代ごろまでの年代が与えられている(註13)ためほぼ現在のところ少なくてもこの頃には開始されていたと考えられる。これ以外にも風納土城跡でも模骨未使用女瓦のほかに石村洞4号墳瓦類似の鐙瓦が確認されているが、この瓦群の年代がさらに遡るものであるのか今後注目される。これらの鐙瓦文様には、瓦当面が4区画されたもの2種、瓦当面に菱形状の花弁を配したもの、瓦当面が凸線による六葉単弁花文のもの、瓦当面が十字に区画された上・下端に円珠を、左右端には鳥足状文を配置したものなどである。それらの鐙瓦における接合技法は概ね「嵌め込み式」と轆轤回転による「粘土巻上げ式」によるものである。このような漢城時代における瓦当文様については近隣地域、たとえば楽浪・高句麗などに類例が認められないものの、製作技法面での類似点から、これらの影響下のもと、これに百済の土器製作技術が加わって造瓦の成立展開がなされたものと考えられる。これらと西穴寺技法との関連は、熊津時代の瓦当文様は何れも形の整った蓮華文が採用されるがこれまで漢城時代行われていたような瓦当文様はまったく姿を消してしまう。この状況は楽浪の造瓦技法が漢城に影響しそれが受け継がれたと考えることと同様である。つまり熊津では瓦当文様の蓮華文が中国南北朝から影響を受けた。という想定も成り立つ。
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   図 4風納土城出土                         図 5夢村土城出土     
 2点目は,漢城期終りごろから熊津初期にかけて中国南北朝の何れからか伝えられた技法から成立,それが在地型技法として残った。この技法は最近京畿道内で確認されはじめている漢城期終り頃の,熊津期と同一技法による女瓦と関連するものであろうか。中国南北朝との通交に伴ってこの時期南朝もしくは北朝から百済にもたらされた造瓦技法であった。
 3点目として,宋山里6号墳羨道部羨門の閉塞用塼の中から発見された銘文塼に見られる「梁官瓦為師矣」から熊津期中国南朝より伝えられた技法である。このように西穴寺技法が熊津にいたった経路には概ね以上3点の場合が想定できる。
新元寺技法についてもやはり西穴寺技法とまったく同様の背景の下、熊津の地で新元寺に行われたものと思われる。具体的には漢城時代「粘土巻上げ式」のものは石村洞4号墳跡、風納土城跡、夢村土城跡の鐙瓦に、「嵌め込み式」は夢村土城の鐙瓦などで展開していた。


2007年12月10日脱稿

註1
国士舘大学文学部考古・日本史学第専攻第3研究室
註2
この瓦は1965年4月2日、当時の国立公州博物館金永培館長発見の鐙瓦(分393-1 )で当時は寄贈返還以前
註3
戸田有二「百済の鐙瓦製作技法について[Ⅰ]-特に漢城時代と熊津時代を中心として-」『百済文化』第30号公州大学校百済文化研究所2001年・「百済の鐙瓦製作技法について[Ⅱ]-熊津・泗沘時代における公山城技法・西穴寺技法・千房技法の鐙瓦-」『百済研究』第40号 忠南大学校百済研究所 2004年
註4
つまり当時筆者はこの所在不明の鐙瓦について大通寺跡出土と思い込んでいたものである。その理由は軽部慈恩著『百済遺跡の研究』-吉川弘文館 1971年刊-のなかで図版46図の1を大通寺跡出土として認識していたことである。この図版には鐙瓦4点のほか垂木先瓦と塼を写真で1点ずつ掲載しているが掲載された個々の写真には番号が記載されていなかった。しかし他の瓦を掲載した図版48、49では個々のわりつけられた瓦のむかって左側を1番として順次番号がふられている。このことから図版46には上、中、下段に6点の瓦写真が割り付けられているが、この上段に2点の鐙瓦がありむかって左側を「図版46の1」大通寺出土鐙瓦と理解した。その後、かつて公州在住当時の軽部慈恩氏が『考古学雑誌』上に西穴寺、南穴寺跡そして公州での百済系古瓦について発表されていたことを思い出し確認したところこの鐙瓦は「西穴寺跡」出土のもので、私の事実誤認であることがわかった。しかしその時期はすでにこの論文が掲載された『百済研究』第40号刊行直後のことであった。その後訂正することなく今日になってしまったが今回この鐙瓦に対する事実誤認をここに訂正する。
註5
国立公州博物館長申 昌秀氏の計らいで2007年10月と11月に実物を観察することができた。
註6
軽部慈恩「百済の旧都熊津に於ける西穴寺及び南穴寺跡」『考古学雑誌』第19巻第4号 1929年 「百済の旧都熊津に於ける西穴寺及び南穴寺跡(二)」『考古学雑誌』第19巻第5号 1929年 「公州出土の百済系古瓦について」『考古学雑誌』第22巻第8号 1932年 「公州出土の百済系古瓦について(二)」『考古学雑誌』第22巻第9号 1932年
註7
軽部慈恩「百済美術」寶雲舎 1946年
註8
軽部慈恩「百済遺跡の研究」吉川弘文館 1971年
註9
軽部慈恩「百済美術」寶雲舎 1946年
註10
稲垣晋也「新羅の古瓦と飛鳥・白鳳時代古瓦の新羅的要素」田村圓澄・秦弘燮編『新羅と日本古代文化』吉川弘文館1981年
註11
亀田修一『日韓古代瓦の研究』吉川弘文館2006年
註12
 戸田有二「百済の鐙瓦製作技法について[Ⅱ]-熊津・泗沘時代における公山城技法・西穴寺技法・千房技法の鐙瓦-」『百済研究』第40号 忠南大学校百済研究所 2004年
註13
亀田修一『日韓古代瓦の研究』吉川弘文館 2006年 図3・4・5は亀田修一『日韓古代瓦の研究』より転載
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by yuji_toda | 2008-05-13 12:20 | 研究室便り  

研究室便り ―戸田研究室春期をふり返って(2007年度)1―

研究室便り ―戸田研究室春期をふり返って(2007年度)1―
4月1日入学式。4月2日オリエンテーションで新入生と対面。4月3・4日、1泊2日で秩父においてフレッシュマンキャンプ(新入生を対象とした教員との顔見世、親睦、履修指導、大学生活におけるアドバイスを泊り込んで指導。
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フレッシュキャンプ一コマ

専任教員のほかそれぞれのゼミから学生3・4年生が1~名程参加して学生の側からも1年生に助言するオリエンテーションの一環)。4月17日より私の授業は開始。火曜日世田谷校舎、水曜日が鶴川校舎、木曜日は学生との古瓦勉強会、金曜日は会議日という大まかな日程で今年度もスタート。
 4年生に進級したゼミ生は8名それぞれ皆自身のテーマも決まり昨年度に比べ取り組む姿勢に気合が入っていた。一方3年のゼミ生もほぼ確定したがこの段階ではそのテーマに対してまだ日光の手前かな。しかし順調な走り出しである。
 5月、私は連休を利用して夏の発掘調査に向けた準備を現地で実施するためイラク古代文化研究所所長 松本健教授に随行しヨルダン・ウムカイス遺跡を往復。このほか5月は3年ゼミ生を対象とした2泊3日のゼミ旅行、今年は奈良・京都を中心とした研修旅行であった。
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 この月の我々教員におけるもう一つの大仕事は4年ゼミ生の教育実習校への挨拶まわりである。戸田ゼミの場合、今年は富山県館山町立雄山中学校、鳥取県立鳥取東高校、徳島県立池田高校でそれぞれ1名ずつ3名の教育実習生がいた。3校とも訪問しご挨拶したが、いつもの事ながら授業風景を校長、教務主任同席で見学した。
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 我々が後ろで真剣な趣で授業を見学することは学生にとって大きなプレッシャーになるだろうなと考えると見学は遠慮したくなる。しかし学生の授業の進め方がことのほかよかったので安心した。
 春季の最終はウムカイスの発掘調査に尽きる。
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7月15日ヨルダン・ウムカイス遺跡の発掘調査のため出発。松本 健団長はグローバルアジアの院生2名を伴い1週間前に先発、現地で合流。私は9月24日帰国。調査区域はローマ時代築造の西門地区城壁内外で、この地域は2005年度より調査を進めてきた場所である。今回もゼミ生3名が個人的なボランテアで短期間であったが参加した。
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by yuji_toda | 2008-03-10 17:00 | 研究室便り  

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