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珍島からイルボンへ

韓国便り1~珍島からイルボンへ~
日本人に韓国で「珍島」といったらなにを連想しますかと尋ねたところある人は「珍島物語」、他には「珍島犬」と答え人もいた。また同じ質問を韓国人にしたら「ボンおばあさんと人食い虎の話」、「珍島犬」、「珍島アリラン」と答えが返ってきた。
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「珍島物語」は「ボンおばあさんと人食い虎の伝承」を題材に作詞家の中山大三郎が書いたものであるため同じものである。

その言い伝えとは珍島の東海岸に虎洞(現在フェドン)と言う海に面した小さな村があった。その昔この村には人食い虎がたびたび出没し住民に危害を与えた。このため村人は対岸の島「芽島」に非難したが、このときボンおばあさん(ボンハルモニ)一人が逃げ遅れとり残された。虎洞に取り残されたボンおばあさんは毎日家族に会いたくて海の神様に祈ったという。するとある日突然海が割れ「芽島」まで陸が続き、道ができたという。そしてボンおばあさん家族に迎えられ再開したという話である。
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この海割れ現象は4月から5月にかけての連休の時期に見られる。珍島には海割れを見るためこの期間、内外から40万人を超す観光客が訪れるという。海割れが広く内外に知られるようになったのはヨーロッパのさる国の韓国大使が1975年これを見て自国の新聞に「韓国にもあったモーゼの海割れ」と紹介したのがその発端といわれている。e0134856_18461410.jpg

以上のことは多くの人たちの知る「珍島」である。しかしこの他にもあまり多くの人たちに知られていないが珍島ではかつて重要な歴史的出来事があった。「三別抄(サンベルチョ)」による高麗政府の遷都の地となった場所である。「三別抄」であるが「別抄(ベルチョ)」は特別に集められた治安維持警察といわれるため、「三別抄」は特別に選抜された3集団から構成された治安維持警察ということになる。

朝鮮半島は統一新羅が倒れ、変わって高麗王朝が統一し開成に都を置いた。都の警護に当たる特別警察として王族・貴族を中心とした「夜別抄」が組織された。その後この組織は「左別抄」と「右別抄」二規模拡大された。そして蒙古侵略に際し高麗王朝は蒙古の支配下に属した。しかしこの蒙古支配に対し一部の王族・貴族・官僚・民衆は不服としてあくまでも対等の高麗政府主権を主張して蒙古軍と戦った。この時「左別抄」・「右別抄」のほかに高麗政府主権を支持する人たちによって「神義軍」が組織され蒙古軍に抵抗した。最終的に「左別抄」・「右別抄」・「神義軍」が合体し高麗政府主権を旗印に蒙古軍の侵略に抵抗した。これが「三別抄」である。1271年8月から1年間「珍島」に政庁(龍蔵城跡)を造営した。このとき「三別抄」が日本政府(鎌倉幕府)に対して「高麗遷都…」の書簡をおくり物資と援護を求めた。やがて龍蔵城を捨てて済州等に「三別抄」は最後のよりどころとし政庁を築くが1273年蒙古軍によって陥落し滅亡した。

今回私が訪韓して「珍島」を訪れた目的は「三別抄」の韓日国際シンポジウムに討論者として出席するためであった。韓国側からは「三別抄」研究の第一人者尹龍爀先生(公州大学教授)のほか発表者2名、討論者3名、日本からは沖縄国際大学から名城敏、上原静両先生そして私の3名であった。今回の最大のテーマは沖縄浦添ようどれ出土の「癸酉年 高麗瓦匠造」刻印銘瓦と高麗の関係であった。

琉球の最初の造瓦が高麗人によって行われたものであるがこの「癸酉年」年が何時の年代になるかが争点であった。これまで1153年・1273年・1333年・1393年が「癸酉年」に当たりそれぞれ過去に論議されてきたがまだ結論は出ていない。この「癸酉年」刻印銘瓦とセットになる鐙瓦文様は高麗時代の文様にあまり多くはないが存在する。とくに1271年8月から1年間「珍島」に政庁を造営した龍蔵城跡から出土した鐙瓦の中には、この琉球鐙瓦と類似する瓦当文様があることから「三別抄」との関連を指摘し1273年説をとる研究者もある。確かに重要な問題である。今後両者の瓦を技法、文様などの点から観察し比較検討することが必要不可欠と考える。
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                 龍蔵城跡と出土鐙瓦
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by yuji_toda | 2008-03-29 12:30 | 韓国通信  

研究室便り ―戸田研究室春期をふり返って(2007年度)1―

研究室便り ―戸田研究室春期をふり返って(2007年度)1―
4月1日入学式。4月2日オリエンテーションで新入生と対面。4月3・4日、1泊2日で秩父においてフレッシュマンキャンプ(新入生を対象とした教員との顔見世、親睦、履修指導、大学生活におけるアドバイスを泊り込んで指導。
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フレッシュキャンプ一コマ

専任教員のほかそれぞれのゼミから学生3・4年生が1~名程参加して学生の側からも1年生に助言するオリエンテーションの一環)。4月17日より私の授業は開始。火曜日世田谷校舎、水曜日が鶴川校舎、木曜日は学生との古瓦勉強会、金曜日は会議日という大まかな日程で今年度もスタート。
 4年生に進級したゼミ生は8名それぞれ皆自身のテーマも決まり昨年度に比べ取り組む姿勢に気合が入っていた。一方3年のゼミ生もほぼ確定したがこの段階ではそのテーマに対してまだ日光の手前かな。しかし順調な走り出しである。
 5月、私は連休を利用して夏の発掘調査に向けた準備を現地で実施するためイラク古代文化研究所所長 松本健教授に随行しヨルダン・ウムカイス遺跡を往復。このほか5月は3年ゼミ生を対象とした2泊3日のゼミ旅行、今年は奈良・京都を中心とした研修旅行であった。
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 この月の我々教員におけるもう一つの大仕事は4年ゼミ生の教育実習校への挨拶まわりである。戸田ゼミの場合、今年は富山県館山町立雄山中学校、鳥取県立鳥取東高校、徳島県立池田高校でそれぞれ1名ずつ3名の教育実習生がいた。3校とも訪問しご挨拶したが、いつもの事ながら授業風景を校長、教務主任同席で見学した。
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 我々が後ろで真剣な趣で授業を見学することは学生にとって大きなプレッシャーになるだろうなと考えると見学は遠慮したくなる。しかし学生の授業の進め方がことのほかよかったので安心した。
 春季の最終はウムカイスの発掘調査に尽きる。
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7月15日ヨルダン・ウムカイス遺跡の発掘調査のため出発。松本 健団長はグローバルアジアの院生2名を伴い1週間前に先発、現地で合流。私は9月24日帰国。調査区域はローマ時代築造の西門地区城壁内外で、この地域は2005年度より調査を進めてきた場所である。今回もゼミ生3名が個人的なボランテアで短期間であったが参加した。
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by yuji_toda | 2008-03-10 17:00 | 研究室便り  

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