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百済の鐙瓦製作技法について[Ⅳ] その2

Ⅴ 西穴寺と新元寺両鐙瓦の比較
 両者の瓦当文様はどちらも八葉素弁蓮華文鐙瓦である。それぞれの計測値は新元寺瓦で
内区径が10,5~10,7cm(11,5cm)、中房径最大径4,3cm(4,3cm)、中房高0,4~0,5cm(0,6~0,7cm)、連子小粒1+4課(大粒1+4課)、花弁長3,2~3,4cm(3,4~3,7cm)、花弁最大幅2,5~3,4cm(2,7~2,9cm)、花弁中房の連結部幅1,4~1,6cm(1,6~2cm)を測り、花弁は膨らみをもつが彫はあまり深くない(これに対して西穴寺瓦の花弁は全体的に膨らみをもち彫りが深い)。これに対して西穴寺瓦各部の計測数値は(カッコ)内の数値に示したとおりである。
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写真 6新元寺(左)跡出土鐙瓦と西穴寺跡出土鐙瓦(右)
 このように両者の瓦当面を比較したとき新元寺瓦のそれぞれの計測値に対して西穴寺瓦のぞれぞれの計測値が多い数値であることが解る。また瓦当蓮華文はどちらも八葉素弁蓮華文で花弁は膨らみをもつが彫はあまり深くない新元寺瓦に対して、花弁は全体的に膨らみをもち彫りが深い西穴寺瓦、そしてどちらも凸型中房で、小粒連子1+4課の新元寺瓦に対して、大粒連子1+4課の西穴寺瓦。などの点が挙げられるが、これらを考慮すると両者は同笵関係にあり、新元寺瓦の瓦笵を彫り直し西穴寺の瓦当笵として瓦が製作された可能性も指摘できる。もしそうであるとするならば西穴寺瓦に新元寺瓦が先行することになる。両者の瓦の関係が瓦当笵の改造によるものかどうか今回は結論を控えるが今後の課題としておく。

Ⅵ ま と め
 以上軽部慈恩氏寄贈の西穴寺跡及び新元寺跡出土の鐙瓦2点について述べ、これらについていくつかの問題点を指摘した点を指摘した。それらについて再度整理するなら次のようになる。
1 西穴寺跡出土鐙瓦は残存部分の状況からその技法には再検討の結果「粘土巻上げ式」と「嵌め込み式」を想定できるが「粘土巻上げ式」が有力である。
2 この様な杵状内型など型木は用いられなかった「嵌め込み式」・「粘土巻上げ式」技法は、すでに楽浪郡の鐙瓦製作技法として行われており、漢城時代でも鐙瓦の製作技法としてすでに行われていた。
3 新元寺鐙瓦のような有稜花弁を持つ瓦当文様は熊津の地域で極めて少なく泗沘の地域でも数箇所で確認できるがあまり多くない。このような特徴のひとつである花弁中央に細い稜線を施す例は中国南朝によく見られる。おそらく中国南北朝の影響下で成立した瓦文様であろう。
4 新元寺跡の瓦の技法は「嵌め込み式」であることが明瞭である。西穴寺跡出土鐙瓦と区別するため便宜的に「新元寺技法」と名称して、これまでの分類に加えた。
5 これらの鐙瓦技法が熊津時代に伝えられた背景には概ね3通り想定できる。
(1) 漢城時代における造瓦技法は概ね「嵌め込み式」と轆轤回転による「粘土巻上げ式」によるものである。これに対して西穴寺・新元寺技法との関連は、熊津時代瓦当文様の蓮華文が中国南北朝から影響を受けて図案化されたが、ある瓦工集団によってこの漢城期成立した技法がそのまま受け継がれ西穴寺瓦・新元寺瓦に用いた。
(2) 熊津時代中国南北朝との通交に伴ってこの時期南朝もしくは北朝から百済に伝えられた造瓦技法であった。
(3) 宋山里6号墳羨道部羨門の閉塞用塼の中から発見された銘文塼に見られる「梁官瓦為師矣」から熊津期中国南朝より伝えられた技法である。
6 新元寺・西穴寺両寺院跡出土の鐙瓦を細部にわたって観察した結果、両者は同笵関係にあり、新元寺瓦の瓦笵を彫り直し西穴寺の瓦当笵として瓦が製作された可能性も今後再検討する必要がある。

by yuji_toda | 2008-05-13 14:27 | 研究室便り  

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